column 建築エッセイ

コンペ1位の建築がいい建築とはならない。(恋愛と同じ)

これまで大型の公共建築などでは、積極的に建築のコンペが行われてきました。有名なコンペにはたくさんの優秀な応募者が参加します。いろんなドラマもあります。

先述したシドニーのオペラハウスの場合では、エーロ・サーリネンが審査員に入っていなかったら落選していた作品です。

東京オリンピック2020のメインスタジアムは再コンペとなりました。当選案の隈研吾設計のスタジアムはもちろん素晴らしいのですが、しかし、当初の当選案ザハ・ハディドの建築も、個人的に「見てみたかった」と思う建築でした。いろいろなことがあったのでしょうが、結局、そのコンペ当選案が実現する事はありませんでした。

「公平性」って難しいですよね。芸術性のあるものを審査する際の公平性ってどうするのでしょうか?最近の多くのコンペ、プロポーザル方式では評価が数値化されてきているようです。

でも本当は大切なことが数値化できないことは皆わかっているのです。

恋愛の対象結婚の相手を決める場合、理想の異性をカテゴリー別に身長高いので5点、収入はまあまあなので4点、洋服のセンスは3点・・・・・などとどんなに細かく採点した結果を積み上げても、高得点の彼氏、彼女を好きになるわけではないのです。結局は大切なものは感性、好き嫌いで決めているのです。

また好き嫌いの場合もコンペでたくさんの案が出てきた場合、実際に建築する入選作を、どう選ぶのか? 誰が選ぶのか?が問題です。

選らび方でこれから建てようとする建築物の価値が左右されます。もちろん、建築を決めるのは主催者ですので、主催者が納得すればそれで良いのですが、ただ、その決定次第で本来の建築としての建築的価値を左右するだけでなく、街の景観や魅力をも左右してしまうのです。

最近ではインターネット上でのコンペサイトや市中のイベントなどで、個人の住宅やその他の建築の設計案をコンペ方式で募集されています。

私も若かりし頃ならコンペサイトなどに意欲的に取り組んだことでしょう。しかし、現在ではそういったコンぺへの参加に対して、私たちの事務所は消極的です。

なぜなら応募用紙数枚、最初の第一案だけで、全く知らない会ったこともない人、私たちのこともよくわかっていない人が入選作を判断する、という仕組みが得意ではないからです。

それに選ばれなかった時のコンペにかかった労力とコストは会社で負担することになります。そしてそれは最終的には、私たちのことが「好きだ」と名指していただいている、今いるオーナー達が、その費用を結果的には負担することになってしまうのです。

ですから、コンペ参加には慎重です。実際そういうコンペに消極的姿勢の設計事務所は多いのだろうと思います。そこに一生懸命になるよりも、今「好きだ」と言ってくださっているオーナーに一生懸命でありたいと私は思っています。ただ、気心も知れ、意気投合したオーナーが、「他の案と比べて納得したい」という場合は喜んで参加させていただいています。

数えたことはありませんが、コンペで勝ち取った名建築物と、最初からオーナーに指名されてできた名建築、どちらの方が多いのでしょうか? きっと、オーナーと建築家が相思相愛でできた名建築物の方が、ずっとずっと多いのではないかと思います。