column 建築エッセイ
下町の商店街が廃れて、大型ショッピングモールが流行る
2024.07.01
下町の小さな商店街がにぎわいを失ってしまうのは、近隣に大型ショッピングモールが建設されることの影響が大きいのでしょう。
ショッピングモールのように大きな施設はブランド力があります。大量仕入れで価格も安い。品数も多く、一度に買い物をすませることができて便利です。
ところで、興味深い話を聞きました。最近日本人が魚を食べなくなったのには、ショッピングモールとのつながりがあるというのです。魚離れには、漁獲量の減少、調理に手間がかかるなどさまざまな要因はあるとは思いますが、「最近の魚はまずいから」と言う人が結構いるらしいのです。
例えば、ショッピングモールがない頃は、買い物といったら近くの商店街でした。毎日行くのでお店のご主人たちとも当然顔なじみ。
「お客さん、ちょっと高いけど今日は良いマグロが入ったから、こっちのマグロを食ってみなよ。絶対うまいから」
「そう? じゃあ買ってみようか?」
そんなやり取りをして実際に買って食べてみると、これが本当においしい。つまり、かつては少しだけ値段が張っても良い品物に出会える機会があったのです。もの選びのプロが、ちゃんとすすめてくれていました。良いものはよくものを知っている誰かが進めてくれないとわからないものですし、本物は高くてなかなか自分では踏み切れないものです。
ところが、切り身がパックに入って並べられたスーパーの鮮魚売り場ではそうはいきません。選択基準が価格しかありません。おいしさを知る術もない。結果、安かろう悪かろうものを選んでしまうことになってしまいます。そうなると、店側ももっと安くて売れるものを並べるようになるわけです。
つまり「魚がまずくなった」というのは、「商店街が廃れてコミュニケーションが少なくなったことで、おいしい魚をすすめてくれる人との出会いのチャンスがなくなってしまったから」ということも、1つの要因と言えるわけです。
いまや買い物はどんな商品もAmazonや楽天など通販サイトのボタンひとつで自宅まで届けられます。ガソリンスタンドはセルフの店舗が増え、コンビニでも自動精算機が普及し始めてきています。人が介在しない買い物は、「自分がその場で持ち合わせている価値観の中だけ」でループし続けます。コミュニケーションが生まれないと、「買い方の力」も今以上に進歩することはないのです。
人が介在することによる若干の「違和感」と「強制」で、選択の幅が広がり価値観が進化していくのだと思います。
建築の話ではありませんが、私の価値観が大きく変わったことがあります。
私がまだ20代で、九州から上京してまもない頃。その頃はまだ「バンカラ」といわれた、洒落っ気のない服に下駄やサンダルで男臭さのあるファッションがかっこいいとされていた時代でした。
私は東京の設計事務所に就職してなお、そのバンカラがカッコいいと思っていたのです。
一方、その時の設計事務所の社長はダブルのスーツの胸にネッカチーフを指して、長い髪を裏返しした親指で書き上げるような洒落た先生でした。
若かった私は、一心不乱に設計一直線。何日も、会社に寝泊りしていましたから、着替えもろくにせず、よく言えばバンカラの極み、はっきり言ってしまえばただの汚い若者でした。
それでもそれが青春のかっこよさと思っていたものです。
そんな私がある時、社長に呼び出されました。
そして「今から一緒に銀座に行くからついて来い」と私を車に乗せ銀座に直行すると、そのまま4丁目の百貨店の背広の仕立てコーナーに連れていきました。
「こいつに合う背広を作ってやってくれ」
社長はそう言って2着分の背広の生地を選び、目が飛び出るほどの高級背広をオーダーしたのです。23歳の若者が高級仕立ての背広なんか絶対つくらない。
自分だけでは生涯選択しない価値観でした。
1〜2カ月経った頃、オーダーされたスーツが会社に届けられました。
会社の連中が皆覗き込み、「着てみろ」と私を突く。
仕方がないので、恥ずかしくも左手を通した。
そして右手も通す。
「ズボンも履け」というのでズボンも履いた。
その時、私の人生の価値観が大きく変わったのです。
「良いものが良い」と分かってしまった。
「もう前の自分には戻れない」
それからというもの、そのスーツをまとった自分に合わせた身の振る舞い方に変わっていきました。仕事で出張のときには、自腹をはたいてもグリーン車に乗り、泊まる場所はビジネスホテルからシティーホテルを選ぶようになったのです。多少の金持ちと話しても気後れすることがなかったのは「服の力」があったのかもしれません。
「立派になってやろう」とがむしゃらに頑張りました。信号待ちの時間が惜しくて、そのわずかな時間にも本を貪り読み勉強しました。自分では絶対に選択しない新しい価値観は、人に強制されなければ生まれることはなかったのでしょう。人生が開いていくこともなかったのです。
こんなことは、合理的なセルフ式のショッピングモールでは、絶対あり得ない話なのです。 そしてこれが、身の回りの環境で自分は変わる。「服の力」で買われるのならば「建築の力」なら人はもっと変わることができる。と思った瞬間でした。