建築物は大切な財産です。せっかく建てたマンションが目減りしては困る。できればお金は増えたほうがよいに決まっている。
本当は住まいも新しいだけが良いというものではない。しかし借り手は当然の事ながら新築物件に人気が集中する。同じ値段なら新しいほうが良い。だから古いマンションはどんどん家賃も下がる。下がるのは古いからだという話になる。
さて、時間がたてばたつほど価値が出るマンションの話です。
世の中には時間がたてばたつほどありがたい物がたくさんあります。
ワインは熟成期間が長いことが尊ばれます。一粒の種を植えた土地には時がたてば緑が育ち人々を癒します。お坊さんの説法も新人の小僧の話よりかは、長い修業を経た住職様のほうがありがたいのです。住む街も真新しい新興住宅地よりもフィレンツェやモンマルトルのような成熟した街に憧れます。皆時間が過ぎたこその価値です。そこでマンションにも歴史を加え熟製させるという事を応用します。ソフトを加え、建物を成長させて行く。竣工の時に南側のレンガの通路の脇に植えた小さなオリーブたちはやがて夏の日差しに木陰を作るほど大きくなっていきます。もっと大きくなったらこの樹の下でチークの椅子に寝そべりながらコ―ヒーを飲むことが楽しみとなる。そこに憧れ赤ひげ先生が引っ越してきたらこの街に厚みが出ます。
外観の統一感も大切ですが個性的なほうがもっといい。住人である新進気鋭の画家が例え勝手にベランダを真っ赤に塗ったとしてもそれが夕日に似合うようなら彼の将来性を信じて許してあげます。シャイな若夫婦が階段を上るとき手をつなげるよう石畳の階段の照明はほのかなガス灯の明かりにするとよい。
年をとったらやはり和風が良いのでどこかに純和風の門を作りたい。定年退職した校長先生が、若者に教えを伝えられるよう道のわきにはベンチをたくさん置こう。
いつの間にかいろんな人がマンションに集まり一生懸命になる。似た者同士が集まりそれが環境になる。幸せそうなマンションに住む人は幸せになる。街も明るくなる。元気になる。
ほら、どんどんこの建物に価値が出てきた。少しくらい値段が張ってもそこに住みたくなる街になった。
近代建築の高層ビルの多くは外壁を壁で覆いガラスをはめ込む。
そしてそれがすなわち街の風景になる。だから都会の街並みは殺風景です。人みしりの街になってしまうのです。コンクリートジャングルなどと言われます。建築は外部と一体化した時生き生きと動き出します。
わたしたちは外と繋がり解放された、街を明るくする、活気ある街並みのためのビル作りを提案致します。本質的なエコへと繋がり懐かしくもあり、新しいあり方です。
具体的には横浜の東横線桜木町駅跡地をイメージしました。
周辺のみなとみらい地区は荘厳で近未来を予感させますが同じ様に隣にある野毛地区も魅力ある伝統的な横浜です。昔横浜駅は現在の桜木町に位置し新橋との間で汽笛一声が発せられました。
桜木町駅には桜の木があった方がいい。文明開化の息吹もほしい。ビルは外に向かって解放され、街に活気を与える。野毛地区の入り口ともいえる場所にふさわしいあり方提案します。
さらに外を生かすという事はオフィスビル限らず、住宅、クリニックつくりでも、商業建築でも重要なテーマです。そういえば外で食べるおにぎりがとびっきり美味しい事や、野外コンサートがことのほか盛り上がるのも同じことなのかもしれません。
本当は朝の力を皆知っているのに朝がテーマの建築はたぶん少ない。今はエコブームであるが2時間早く朝7時に仕事を始めれば夜が短くなりエコにもなると思う。
そう思ってわが社では4年前から2年間そうしてみたが、周りがどこもやってないので結局夜も遅くなり、 働く仲間の反対もありやめた。それでもやはり朝は気持ちが良い。だれもが純粋になる。仕事は同じ1時間かというほど進む。 抒情的な問題なら昔ならった川端康成の’朝の光の中で‘(と言うそうです。)は本当に良い。 ダイニングテラスのテーブルの上に置かれたガラスのコップにハワイ特有の影の強い朝日が差し込む。 冷たい水と一緒にいくつもの氷が弾け光がくるくる舞う。 ハワイのカハラヒルトンでの朝の風景であるが、いつからだろうこの風景を住宅で実現したいと思うようになった幸せになりそうな 気がするのである。
そんな朝の風景から出勤し途中、神社の前をとると、凛とした感じにおもわず張りが出る。 わざわざ神社の前を通らなくともその感じがオフィスビルにあったら、勇ましい会社になると思う。 だから建築も朝にこだわりたいと思った。朝の光をうまく使えばそれがきっとできる。
老人ホームというネーミングは良くないと思うのですが、もっともっと人生の先輩たちには輝いてほしいと思います。かの建築家巨匠フランクロイドライトはそれまでの作風から一っ飛び69歳の時に落水荘を発表しました。その後怒涛のごとく傑作を生み出していきます。ジョンソンワックスビルは72歳と77歳の時の作品です。タリアセンウエストやグッゲンハイム美術館は何と92歳の時の作品です。だからいつまでも現役でいてほしいのです。輝く環境もあるべきだと思います。私たちがいつか行く道として。
たとえば、その先輩は昔ニューヨークの商社で活躍していた方かもしれません。英語を教えてもらいましょう。アメリカの事たくさん聞きたい若者がたくさんいるかもしれません。お花の先生は女学生に花の心を聞かせ優しさを伝えるべきです。昔校長先生だった方には若者の悩みを聞いてあげる相談室があれば青年が、街が助かる。これからは街が大人に頼るのです。中には具合いの悪い方もいるかもしれませんが、大人の発信基地のようなところがあったらいいと思います。そして、その建物のローカは街でいえば道であるから曲がりくねっている。
昔見た街角を思い出します。途中途中にある陽だまりの場での雑談はほのぼのとしてよい。そしてここにはもちろん若者も子供も、男も、女もアメリカ人も、警察官も皆が交じって人生のうんちくを話し合う様な活気がある。見てみたい風景である。
いつからだろう。
時代はまるで、小説を読み飛ばすように、
進まなければならなくなった。
街は新しい物であふれかえり、
昨年買った携帯電話はもう古い。
TVでは一秒の遅れが許されず、
一日中新しい情報を発信しつづける。
私達は少しだけ進みすぎました。
社会も科学もシステムさえ、
複雑になりすぎた。
便利にもなった。
ボタン一つで家中をコントロールし、
欲しいものは机のパソコンで世界中から探せる。
歩かなくなった代わりにスポーツクラブができ、
冷凍食品や外食での補いに、
健康食品がある。
あるのだが、しかし…
そろそろ便利も限界にきた。
少しだけ、不便の覚悟をした方が結局はいい。
少しだけ、凛と規律正しい生活が清々しい。
生活が一変し、我が家も我が街も、全てが生き生きとする、
そんな自分をきっと発見できる。
必要なのは、やりすぎをやめる事でした。